ハハハ廃墟

サボタージュ

VS 基本的人権

大学のレポートそのまま

 

 憲法の改正とは憲法第96条に則り成文の憲法典の条項に修正・削除・追加あるいは新しい条項を加える等の変更を意識的、形式的に行うことを言い。
憲法制定権力の制定が自然法に則る限り、この自然法の解釈により憲法の改正の限界は変化する。
 本来の自然法とはリンゴが地表にむけて落ちるような抗いようのない自然本省に則り自然の事象すべてを支配する法であり。その上で「人権」や「国民主権」などは「自然法」のもと人が人に向け定義したものであり。「人権」や「国民主権」に反する事が行われる事も「自然法」に則った事なのである。そもそもこの場合「自然法に反する」という事が不可能であり。このような解釈での自然法のもとでは憲法の限りない改正も「自然法」に則ったことであり、自然法に則り憲法の改正に限界はない。

 自然法を「自由・平等・幸福追求権等の人権は人間がただ人間であるという事に基づいて、生まれながらに当然に有する権利であるという思想を言う」と人間を特殊に見た不自然的な解釈をするならば、この解釈により憲法制定の最終的権限が国民に存在するという事を意味する国民主権基本的人権の尊重基本的人権の守護を目的とした平和主義、この全てを守る憲法の硬性などに反する憲法の改正は不可であり。憲法の改正には限界が存在するという事になる。
 しかし、自然法とはその名にある通り「自然」の「法」であり。時間と場所を超越し普遍的に存在するものであり。「自然」とは「神」であり「全て」である。そこにある自然権には「全て」の権利が存在し「人が生きる権利」があれば同時に「人が人を殺す権利」も存在するはずであり。そこから自然権に則り「基本的人権」を作り出し実質的に「自然権に則り殺人を禁止する」とした場合、本来の自然権の持つ「人が人を殺す権利」と矛盾することになる。自然法を「自由・平等・幸福追求権等の人権は人間がただ人間であるという事に基づいて、生まれながらに当然に有する権利であるという思想」
とするならば、それは全く普遍的でなく、「自然」という言葉は不適切である。